Hiroshima Magazine -Issue 01-2 INTERVIEW / Artist 立花文穂

Dec 23, 2021

Hiroshima Magazine -Issue 01-2 INTERVIEW / Artist 立花文穂

THE KNOT HIROSHIMAの14Fに設置しているMagazineの内容を一部ご紹介。
今回は1Fのエントランスを彩ってくれた立花文穂氏のインタビュー内容です。

広島らしさを感じてほしいわけではない

ホテルエントランスで旅人を出迎えてくれる7つのアート作品。作者であるアーティスト・立花文穂さんは、生まれ育った広島のまちに在る7つの川から着想を得て、7つのアートワークをここに展示した。
「僕のなかで、少し広島を意識している“かもね”っていうものを“なんとなく”7つ選びました」
30歳くらいから自身のなかで広島のことを思いながら作品をつくるようになった。それは立花さんの故郷をみる目線が変わってきたことが深く関わる。

「幼い頃、イサム・ノグチがつくった平和大橋の欄干はとても低くて、川に落ちちゃいそうだと思いながら渡っていたり、世界平和記念聖堂も風景の一部として当たり前に通りすぎていました。けれど、大人になるとそれらがまったく違う意味を持って広島に存在していることに気がつきます。イサム・ノグチが広島に関わっているということはイサム・ノグチを知れば知るほどすごいことだし、そう思うと慣れ親しんだ景色たちがまったく別のものに見えてきます。僕の中で、広島がまた特別になる瞬間がありました」
今まで当たり前だった風景が当たり前でなくなった彼の感覚が、紙とインキのうえに実体化してニュアンスを重ねていく。
たとえば作品『白い紙に顔を押しつぶしたときにインキが押し出されてはみ出してしまった感じ。またはドロドロの鉛が母系に隅々にまで行き渡っていく感じ。』は、立花さんが30代半ばに制作したコラージュ作品だ。
「活字のマージナルゾーン*に、ある人が「そこに宇宙がある」って語るのをきいて「確かにそこに宇宙があるな」と僕も感じて、その流れでつくった作品です。そのことと僕のなかの広島がかぶる部分がありました。僕にとって広島のことは追体験。だから追いかけても届くわけないけれど、作品づくりのなかで少しでも広島を想像してみたい気分があった。それがこの作品にある、」
「かもしれない。」と立花さんは付け足して笑った。そのニュアンスの真意は、立花さんは作品を通して、広島らしさを感じてほしいわけではないからだ。

7つの作品をTHE KNOTに選んだ理由の共通点を述べるならば、広島が彼に与えたインスピレーションが紙のうえに必ず存在しているということだ。
「どこに生まれて育っても、故郷に対して、人それぞれ時を経て違う感覚を持つ分岐点があると思います。この作品を見て、みなさんのごく個人的な、その感覚につながっていくといいな、と。大事な部分を思う気持ちや、そういうことってあるよねって」
広島のことを題材にして行っている活動は多岐に渡るが、ことばで広島のことを話すのは難しいと立花さんは言う。故郷と向き合って、言語化することがどこか気恥ずかしいからアートにその思いを込めている、とも。

*マージナルゾーン:印刷した画像や点のふちに生じるインキのはみ出した輪郭のことを指す。

現象だけを追いかけるアートとは違っていたい

文字、紙、本をアート表現の素材とし、多様な作品で国内外から評価を受けるアーティストである立花さん。彼のクリエイティブの原点は、紙を触っていること、文字を書くこと、そして印刷。広島市内で製本所を営んでいた家業を手伝い、紙を折ったり、剥がしたり、数えたりしていたと教えてくれた。
「今回の作品もそうですが、印刷するってことは、版なりデータなり「もと」をプレスして、複製したもの。親と子みたいなその関係性が印刷の網点として紙に定着していくことが楽しいなと思ってやっています。その過程や成り立ちなど「行為」に興味があるので出てくる図柄にはそこまで興味はないかもしれません。今は、過剰なきれいさやリアルさが追求されていて、それが本当の意味で人に良いものなのかとも考えます。昔の印刷物にあった網点が目視できる感じなど、ああいうもののほうがクリアなものよりも人の感覚に近いのかもしれない」
視覚伝達のスペックは日々進化しているけれど、受け取る側の人のスペックは今も昔もそこまで変わっていない。立花さんは、インキと紙と印刷の表現から「人の目」「手の触感」など、昔の感覚を引き継ぎたいとも考える。
「いままで、目視したものの手触りや質感が直感的にわかった上で触れていたものが、今はスマホのフリックひとつでページをめくることができる。紙には厚さや肌理がありますが、いまは目視して想像して触る範囲がだいぶ狭くなっている気がしています。手で触る経験をしなくなることで、わからなくなる。どんなに便利な時代になっても、そういう感覚は人間にはずっと必要じゃないかと思います。昔のものを懐古的に追いかけたいわけではなくて、感覚がキープされている状態がつくれたら。
たとえば、今回の作品の墨色は基本2回刷っています。1回目を乾かしてから、再度、印刷機に通してインキを乗せます。色を見るだけなら、そんなことをやる必要はないのだけど、僕は墨色という色の現象を見たいのではなく、物質としての実体が見たいんです」
立花さんの父親は原爆死没者名簿の製本を担当していたというエピソードを持つ。命が消えていくたびに記されていく名前を、紙にしたため、束ねて本にしていく。そこに記された文字の意味や、ページをめくる重さ、見る人の眼差し。それを知っているからこそ、彼の印刷表現へ重ねていくものに深淵を帯びていく。現象だけを追いかけるアートとは違っていたい。
目にみえる現象と、見えない実体、そして見る者の感覚に委ねられるもの。立花さんの作品から旅人たちへ、ヒロシマを味わうための余白を贈られたように感じるのだ。

広島に魅力なんてあるの?

「このまちを出て30年以上経って、東京に居る時間のほうが長くなりました。それでも広島駅に着いてホームに降り立った瞬間から『ほう』って肩の力が抜ける。そんなまちです」
なにが違うのかと伺うと「空気」だという。広島の魅力や良さも「広島に魅力なんてあるの?わかんない」と嘯く。原爆ドームや嚴島神社といった有名な観光地も行ったら素敵だけど、おすすめかと問われると違う気がする、と思案顔。
「おすすめというか、僕は単純に「広島へ来てほしい」と思う。ここに。
広島をどう感じるかは人それぞれだから。1回来てみてよっていう気分になる。そこで「こう思って!」って指図するのは僕は違うかなって。でもお好み焼きは食べたほうがいいね、とは思います(笑)」

10年ほど前からこのまちにアトリエをかまえ、多いときは月に2、3回帰る。東京から新幹線で4時間以上かけてこのまちに通う理由が知りたい。
「父親の製本所が閉じて、製本所の機械を使って本をつくりたいと思い、まちなかに仕事場を持ちました。広島へ来る理由は仕事をするためだけど、ここに来る理由をつくるために仕事をつくったりもします」
立花さんの愛着を深めていく要素がこのまちに散りばめられているのだとすれば、そのかけらを教えてほしい。
「そうですね、やっぱりイサム・ノグチがデザインした西平和大橋は思い入れがあります。あのすれすれひやひやのお腹の底がふわっと浮くような感覚を日常で味わうのがおもしろい。あとピースセンター(広島平和記念資料館)の柱も気に入っています。あそこは毎年行くし、見知っていた柱なのに、あんなへんな形をしていたなんて気づきもしなかった」


もちろん郷愁もある。立花さんのマイソウルフードは学生時代から通っていた「Pinkerton’s Souk」のチャイとチーズケーキ。今でも広島駅を降り立って、実家より先に立ち寄る。
「皆さんが旅しに来たこのまちは、僕らにとっては小さい頃から日常の場です。8月6日は登校日だったし、平和教育的なものをすり込まれて育っています。けれど、ここへ泊まりにきた人たちはそのバックグラウンド感覚はいらないし、皆さんの感覚で広島に在るものを見て感じればいいと思います」
建築家・丹下健三氏の傑作をはじめ、名だたるクリエイターがこのまちに残したものを再確認するたびに「そういう都市なんだ」と実感する。
原爆ドームが修復作業に入っている様をみると「直しているのか壊しているのか遺しているのかわからない」と複雑な気持ちにもなる。立花さんにとって広島は常になにかを問いかけてくるまちなのかもしれない。
そんな広島のまちで深呼吸したい、感じたいと、彼の言葉と作品に触れて思うのだ。

美術家 立花文穂
1968年広島市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。東京芸術大学美術研究科修了。文字・紙・本を素材、テーマに作品制作し、1995年佐賀町エキジビット・スペースで個展「MADE IN U.S.A.」をはじめ、2011年、ギンザ・グラフィック・ギャラリー(東京)で「デザイン 立花文穂」展など国内外で展覧会を行う。2007年より責任編集とデザインを自ら行う雑誌『球体』を始める。2020年現在、8号まで刊行。『クララ洋裁研究所』(2000年)、『書体/shape of my shadow』(2014年)、『傘下』(2020年)など数多くのアーティストブックを制作。著書に『かたちのみかた』(2013年、誠文堂新光社)、『立花文穂作品集 Leaves』(2016年、誠文堂新光社)がある。

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